Nishimaiko Baptist Church

トラクトコーナー

福音による幸いな人生(表 博之 著)



恐れからの自由

「私が主を求めると、主は答えてくださった。私をすべての恐怖から救い出してくださった。」  (詩篇34:4)

中国武漢で発生した新型コロナウイルスに感染した人々が3万人を超え、死者も1000人以上となり、今も広がり続けており、経済的な問題も起こり始めています。人々は感染を恐れ、家から出られなくなったり、マスクの着用が義務化されているところもあります。 今、多くの人々は目に見えない細菌と戦わねばなりませんし、問題解決の方法が定まっていないので、感染の広がりを「恐れ」「不安」が広がっているのです。 「恐れ」はストレスの主な要素であり、ウイルスと共に人々の身体を弱らせることになります。 病気と死を人々は昔から恐れてきました。自分の願いが実現しないことや失敗すること、すでに手にしているもの、それらが奪われたり、失うのを人々は恐れてきました。 恐れを取り除く努力がされたり、改善がなされてきましたが、人々の心の中から恐れがなくなることはありません。 恐れの根本的原因は、どこにあるのでしょう。幼い子供が泣き叫ぶのは、お母さんやお父さんの顔が見えない時ではありませんか。幼い子供にとって、親は本来、究極の拠り所であり、安心、安全基地なのです。 お金や健康、仕事、食べ物が整えられることも大切な要素ですが、人は心(魂・霊)の真の拠り所を求めて止みません。 人の健康、そしてこの地上に存在するすべてのものには限りがあって、不変ではありません。人は拠り所がなければ安心できず、一時的な拠り所は、それを失うと強い恐れに陥ってしまうのです。 偽りの神々や哲学ではなく、天地万物を創造された人間の真の生みの親であり、今も、招きの手を差し出しておられる神を求め、信頼して生きる人生を歩んでください。創造主なる神は、私たちとともにいて下さり、私たちのことを心配していて下さり、守り、導き、永遠のいのちの希望を確かなものとして下さるのです。

メニューへ

感謝の魅力

「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(新約聖書)

「ありがとう」という感謝を表す言葉はどんなに魅力的な言葉でしょうか。
今日も、人間関係でストレスを感じている方々が少なくありません。共に生きる関係であるはずの人々の間で、傷つけ合って苦しんでいるのです。物が豊かになっても、便利になっても、人間関係での苦しみは変わらずに存在しており、支えあうべき関係で、生命を奪い合うことまでもが起こってきています。
もし、互いに感謝する生き方を身に付けることが出来るなら、もっと自由を手にすることが出来るのではないでしょか。

感謝の根源は両親から生を受け、親の養育の中で生かされていると言う体験から生まれるものです。人間関係における第一の教えが「あなたの父と母とを敬え。‥‥」とありますように、親への感謝から始まるのではないでしょうか。この点においては、どの民族も共通した認識を持っているといえましょう。
聖書では、さらに、全人類の共通の起源として創造主なる神が存在をすることによって始まるものと教えられています。両親への感謝も、神への尊敬、感謝によって培われるものです。
現実には、様々な生い立ちがあり、家庭環境があり、素直に親に感謝できない方々もおられることでしょう。

神は、完全な父として、人を愛して下さいました。神を信じようとしない人々、認めたくない人々にも赦しと和解の手を差し延べてくださったのです。神の独り子イエス・キリストが十字架で死に、復活されることによって、人と神との和解の道が開かれています。

「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5章8節)

全能、全知なる神はすべての不正をいつの日にか正しく裁かれるのですが、イエス・キリストを信じる人々に神との正しい交わり、関係の中に生きる生命を、賜物として与えると約束して下さいました。
罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

(ローマ6章23節) 創造主なる神との正しい関係(神への尊敬と感謝)を身につけることによって、人は、どのような環境の中にあっても感謝することを学ぶのです。
「感謝の種」はあなたを魅力的な人とするでしょう。「感謝」は喜びの実を結ぶ種です。どのような時でも感謝があれば、喜びが生まれます。逆に、いつも「不平、不満」をもっているままなら、喜ぶことは出来ません。むしろ、怒りの感情が強く、それによって人間関係を傷つけてしまうでしょう。
喜びは笑顔を作り、あなたを魅力的な人物にするのです。
「感謝の種」は良き人間関係という実をも結びます。

感謝する人の心と言葉は、相手の心を大いに励まし、心の安らかさを生み出すことでしょう。
激しい言葉や怒りは、真に人の考え方を変える力にはなりません。時には、子供を叱ったり、教育するための激しい言葉、感情も必要かも知れませんが、条件反射のような怒りや激しい言葉は、避けねばなりません。

多くの感情は、思考によって左右されます。感謝することを選んで生きようとしているでしょうか。感謝することがどんなに大切であるかを日頃から学ばなければ、人は感謝する者になりにくいのです。
感謝がなければ、喜びも少なくなるでしょう。
人々を励ましたり、安心させることが出来ません。
どんな学歴、社会的地位、才能や物を持っていても、感謝の少ない人生は、魅力的な人生とはいえないのではないでしょうか。

現役最年長の医師であられた日野原重明先生は著書の中で次のように言っておられます。
「『ありがとう』のことばで人生をしめくくりたいものです。
地位や名誉は死ねばなくなる。財産も残したところで争いの種をまくだけですが、「ありがとう」のひと言は、残される者の心をも救う何よりの遺産です。」「生き方上手」より。

メニューへ

いのちの大切さを考えよう

一度限りの人生

「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに。また『何の喜びもない。』という年月が近づく前に。」(聖書)

日本人の平均寿命は男女とも世界一で、女性は87歳、男性は81歳となっています。(2017年)これからの医学や予防の進歩によってさらに延びるかもしれません。
しかし、この地上の「人生が一度限り」であるという事実は変わりません。巻き戻すことも、永久に延ばし続けることも出来ないのです。
一度、二度の失敗で私たちの人生が決定づけられるものではなく、大いに再挑戦しなければなりません。しかし、「一度限りの人生」ですから、やはり、毎日を大切に生きなければならないのではないでしょうか。

百二十歳まで生きたモーセは次のように語りました。
「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちは飛び去るのです。‥‥。それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。」聖書

百二十歳の、モーセが現代に生きていれば、世界一の長寿者となるでしょう。そのように長寿を生きても、この地上の人生は「早く過ぎ去り」「労苦とわざわい」であると語り、「それゆえに、自分の日を正しく数えることを教えてください。」というのです。モーセが言っていることは「この地上の人生を有意義に生きる知恵を得させてください。」ということであります。
「一度限りの人生」を有意義に生きるためには将来に対する希望が必要ではないでしょうか。かつて仏教から来る死生観によって、人は死ぬと他の人間か動物、あるいは草木に生まれ変わると信じられていましたが、今日では多くの人々は死ぬとすべての存在は終わると信じているのではないでしょうか。ですから、苦しみを終わらせるために死を選んだり、人生において、自己実現という名のもとで自己本位な生き方が優先されているのではないでしょうか。
聖書の死生観は、変わることなく明らかに語られてきました。人の人格(霊魂)は永遠に存在します。全能者によって正しい裁きが行われ、それぞれに適わしい報いが与えられるのです。この地上の人生(一時的)は、永遠の人生をどこで、どのように過ごすかに大きな影響を与えるのです。
「神は善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべての業を裁かれるからだ。」聖書

キリストの十字架と復活は、すべての人々に示された創造主なる神の愛と希望であると言えましょう。地上の人生において、どのような罪を犯しても、キリストの身代わりの死の故に、神の裁きではなく赦しが与えられ、キリストの復活の故に、同じ復活の希望が与えられ、信じる人々に、希望と地上での労苦の報いが約束されるのです。
「わたしは、よみがえりです。いのちです。私を信じる者は、死んでも生きるのです。」聖書

「人生は一度限り」で時間は早く過ぎ去ります。巻き戻しをすることが出来ません。もし、死んですべてが終わるなら、なんと、はかなく、空しいことでしょうか。神は人を互いに愛し合うものとして生かされました。自分本位の人生をどんなに実現しても、それで本当に喜べるでしょうか。
あなたの人生の愛の実を他の人が食べて喜ぶような人生こそ、そして、永遠の希望を持てる人生こそ、人の本来の生き方ではないでしょうか。

メニューへ

いのちの説明書

人はどこから生まれ、どこへいくのだろうか?

毎日の生活の中で、今、多くの人々に使われている便利なものは何でしょうか。携帯電話を第一にあげる人が多いのではないでしょうか。さまざまな機能があり、十分に活用するためには、説明書にしたがって操作しなければなりません。沢山の機能が十分に活用されるために、様々な機能を持った部品が無数に組み込まれているのです。どんなに複雑であっても、設計者はその機能の使い方を正しく説明することが出来るでしょう。…?

今、人間は、どのように〝いのち〟を活用しているのでしょう。
集団で自殺する人々、人の命を利己的な理由で奪ったり、傷つけたりする人々、無気力になったり、自信を失って引きこもる人々、不安や恐れ、目的を見失い自分らしく生きることが出来なくなっている人々が少なくありません。
このような生き方は、人間の本来の生き方ではないと思われます。

大切な一度限りの人生で、いのちについてどのような説明がされているでしょうか。
一、偶然に出来た一つの細胞から、しだいに複雑な生物となり、人間となりました。人間の祖先にはサルや虫がいたのです。
二、環境に適し、競争に勝つ、強いものが残り、弱いものが死滅することは避けられません。
三、子孫を残すことによって、いのちを続けること、社会をよりよいものとするために生きており、自分の望みを実現するために努力することがすばらしいのです。
進化論を信じている限り、この説明以上の〝いのち〟の使い方について説明されないでしょう。

聖書の説明を聞いて下さい。この説明を信頼して生きることによって、多くの人々の人生は、変えられてきたのです。

一、人間は偶然に存在したのでも、別の種類の生物でもなく、初めから人間であり、神のかたちに似せて造られ、目的のある存在です。 「神はこのように、人をご自身のかたちに似せて創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」創世記1:27

二、人間は互いに愛し合うために生かされています。
「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。あなたの隣人をもあなた自身のように愛せよ。」マタイ22:37,39

三、人間の自己中心(創造主に対して)の罪の故に、人間社会に争いと死が入って来ました。「…ちょうどひとりの人(アダム)によって罪が世界に入り、罪によって死がはいり…」ローマ5:12

四、すべての人は平等に神(正なる審判者)の前で裁かれます。「…あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め。しかし、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ。」伝道者の書11:9

五、イエス・キリストの十字架と復活を信じるすべての人々に、永遠に生きる確かな希望が約束されています。「わたし(イエス)は、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」ヨハネ11:25

「アメイジング・グレイス」の詩の作者ジョン・ニュートンは、奴隷船の船長となり、不道徳な道を歩んでいましたが、嵐の中で神に助けを求め、助けられた後、生涯中イエスの愛を人々に語り、歌い続けたのでした。

メニューへ

よりよい人間関係の鍵

~何度まで赦すべきでしょうか。~

「何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」 イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」(新約聖書)

21世紀を迎え、私たちはかつてなかったほどの物質的豊かさ、自由や便利さを多くの方々が享受できることとなりました。
半世紀前の人々からするならば、夢のような快適な生活ではないでしょうか。しかし、真の意味で、人々が幸福になったとは言えないように思われます。
自殺者が毎年2万人前後、3組に1組が離婚、精神疾患が400万人弱、家庭の機能が弱体化しています。家庭内での殺人、「誰でもよかった」と無差別殺人が行われ、「生命の尊厳」が喪失されているのではありませんか。

人は共に生きる存在です。
人と人とが共に生きる中に喜びを見出すのではないでしょうか。「人が、一人でいるのは良くない。」と聖書の教えられているように、共に働き、遊び、交わる中に、生きる意味や喜びを見出すのです。孤独によって生きることそのものの意義を失うこともあるでしょう。しかし、現実には、共に生きることに悩み、苦しんでいるのではありませんか.

共に生きる鍵は「ゆるし」にあります。
共に支え合う関係の中で争いが起こり,傷つけ合い憎しみが生じるのです。夫婦、親子、兄弟姉妹、同労者、友人、隣人等々‥‥。小さな意見の違いが争いと憎しみに発展します。 「ゆるす」ことが出来れば、争いはなくなり、互いに励まし合う者として幸福を共有し合えるのですが‥‥。「ゆるす」ことができません。いや、「ゆるし」たくないのです。

「ゆるさない」ところに苦しみが
〝ゆるさない〝〝ゆるしたくない〟のにはそれなりの理由があります。
被害者は加害者に償いを賠償を要求することが出来ます。「ゆるす」ことはそれらの権利をすべて放棄することではありません。〝心の決意〟です。「神の裁き、法の裁きに委ねる。その決定を受け入れます。償いを手にすることは〝ゆるし〟を容易にするでしょう。しかし、〝ゆるさない〟決意が続くことも少なくありません。「ゆるさない」ことによって一番傷つくのは一体誰でしょうか。その人自身であり、加害者ではありません。自分自身の心が穏やかで、幸福感に満ちる者であるために「ゆるし」を必要とするのです。心の中に潜む、憎しみによって心身が弱ることも少なくありません。脳内の化学物質のアンバランスが病気の原因としてもその根本原因は「ゆるさない」心にあります。

「ゆるしの力」はキリストの十字架から
イエス・キリストの十字架は今日、世界中で愛の象徴として用いられています。イエス様が十字架上で最初に祈られたことばは次のことでした。
「父よ。彼らをおゆるし下さい。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」
人はなぜ「ゆるす」ことができないのでしょう。夫婦の争いから民族と民族との争いに至るまで‥‥。
それは、自己中心の人生観で生きているからです。人類の始祖アダムから今日まで人間の生き方変わっていません。
幼い子供も自我の確立と共に自己中心性を発揮して、お菓子やおもちゃを奪い合うのです。
創造主なる神に対して自己中心となった人間は、人と人との関係でも自己中心に生き、争いは止むことがありません。自己中心とは神を信頼して委ねる生き方とは全く対照的生き方といえましょう。
神は人々に義の怒りを下される代わりに神の御子イエス・キリストを裁かれ、人々を赦そうとされているのです。
誰でも、神の赦しに与かることが出来ます。

「 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」(ヨハネ3章17―18節)

神の正義はあらゆる不正を正しく裁かれます。それは、あなたに対しても同様です。
人は他者をゆるす者となるためには、まず神の「ゆるし」にあずからなければなりません。創造主なる神を中心とする人生観を持たなければ、真に人をゆるす者とはなれないのです。

「 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(第一ヨハネ4章10節)

「ゆるし」はあなたの選択です。

メニューへ

人は何のために生きるのでしょうか?

「イエスは彼に言われた.『心を尽くし、思いを尽くし、知力をつくして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じように大切です。」(聖書)

連日のように家庭内での殺人事件が発生しています。「食べるのが遅いのでいらいらした」といって頭から熱湯を浴びせられ、棒でたたかれ幼い子が死亡した事件。有名進学校の息子の放火により、母と弟、妹が殺された事件。有名国立大学の息子に「パチンコばかりして」と注意して殺されたお母さん‥‥。
何と悲しい事件ばかりが続くのでしょうか。今日も、全国の家庭では、有名高校、大学に入学出来るようにと子どもたちは塾通いをしていることでしょう。
どんなに苦しく、つらくても、殺人によって問題を解決することは、自殺行為です。一人の死に終わらず、家族、親戚全体に悲しみが広がるのです。教育がいつの時代においても最重要課題であることは、多くの人々が共有する価値感ではないでしょうか。しかし、今日、真剣に考えなければならないのは、教育の根本は何であるかと言うことです。職業教育、資格取得教育以上に〝生きる意味、目的〟を教えるのが教育の根本ではないでしょうか。大人たちが生き様を通して子どもたちに生きる意味を教えなければなりません。
〝種は相応しい実を結んでいるのです。

目的を失った人生
「私の人生に意味がない、目的がない」と考え、集団自殺をする人々がいます。
人は「考える」存在です。ですから、すべての事柄に意味づけを求めて止みません。もし、目的がはっきりとしているなら、その目的達成のために努力をするでしょう。「勉強しなさい、働きなさい、でなければ生きて行けない。」と教えるのですが、何のために生きるのかを教える人がいません。

誤った目的の人生
どんなに努力して走っても目的が誤っていれば、正しい目的地に到達することは出来ません。大学に入学するのが目的でしょうか?リストラ、病気での失業、退職などで、仕事が出来なくなるなら生きる意味を失うことになるのでしょうか‥‥? お金や高等教育、職業も生きるための手段であって目的ではありません。あるいは当面の目標にすぎません。
人は、生きる限り意味を持ち、目的を必要としています。

欲望のためでなく愛に生きる人生
進化論によって教えられた人生観は、人間が中心となり、勝ち進む者だけが生き残ると教えられ、結果的に、欲望の追求が目的となってしまうのです。殺人、不正、ねつ造などが生じるのも自己中心的欲望からではないでしょうか。
キリストは「万物は創造主によって造られ」神は尊い目的を持っておられると教えました。
その目的とは、創造主を愛し、人間が互いに愛し合うことであると言われました。家族が傷ついて、あなたは喜ぶことが出来ますか。自分を犠牲にしてでも家族や友人、隣人が喜ぶ姿を見ると、あなたも、喜び、しあわせに感じるでしょう。

愛の一つの現れは赦しです。あなたを傷つけた人を心から赦す事が出来るでしょうか。本当に人を愛するとは、とても難しいことです。ですから、今日も争いは止みません。そして互いに愛し合う家族の中で争い傷つけ合っているのではありませんか。
人間の自己中心的生き方は、まず、神との間で生じました。
人は神の存在、意志を拒み、その後、他者との関係においても自己中心的に生きるようになったのです。
ですから、最初に神との関係を回復しなければなりません。
感謝します。神は愛なるお方です。人を裁く権利を有しておられるのですが、人を赦し自ら関係回復の手を差し延べて下さいました。
イエス・キリストの十字架は神の愛の最高の現れです。人類の罪はキリストの上におかれ、キリストは身代わりとなって十字架上で苦しみ裁かれたのです。罪人を裁く神の正義と赦す愛が、十字架上で示されたと言えましょう。

「神はその独り子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させて下さいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。」(聖書)

キリストは言われました。「私は正しい人を招くためではなく、罪人を招くためにきたのです。」神はどのような人をも愛し赦そうとされているのです。すでにイエス・キリストの十字架の身代わりによって、すべての人を赦す十分な代価が支払われました。誰でも神の愛を感謝して受け入れるなら、神の愛と赦しに与ることができるのです。
人にとって愛に生きることが本来の目的ですが、罪を持つ故に愛に生きることが人にとって難しく、代わりの目的を掲げて生きようとしているのではないでしょうか。しかし、これ以上、家庭が殺戮の場となる前に一人でも多くの方々に神の愛を知り、愛の中に生きる者となっていただきたいのです。

「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛して下さったなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。」(聖書)

メニューへ


ヒューマニズムと武士道と聖書

「それで、何事でも、自分にしてもらいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者(聖書)です。」マタイ七章十二節

ヒューマニズム(人間中心主義)は人間の知恵と力でユートピアを実現出来ると考え、進化論を土台とした人生哲学です。第二次大戦後、欧米より民主主義と共に日本に入り、今日、大多数の人々の人生観となっているといえましょう。〝道徳心が失われた〟と叫ばれていますが、ヒューマニズムに基づく教育の結実と言えます。個人の人権、自己実現を重んじる価値観であり、決められた倫理、道徳はありません。人間が常に進歩し続けるならばユートピアを実現出来るでしょうが、人間の本質を見誤っているのではないでしょうか。

武士道精神への帰郷‥‥?!
毎日のように殺人、汚職、詐欺事件が起こる中で、一部の人々は(政治家、教育者、等々)、日本人が昔から保って来た高貴さ喪失を憂い、日本人の伝統的道徳としての武士道への回帰を主張する人々も出てきました。 確かに目先の利得に振り回され、短絡的に人を殺したり、だましたり、富を得ようとする今日の風潮の中にあって、「公義」「忠誠」「仁」(他者をいつくしみ、弱い者への情)「名誉」(人に笑われるようなことをしない)等の特質を持つ武士道が懐かしく思われることでしょう。

聖書は最高の道徳の教科書
「武士道」(BUSHIDO:The Soul of Japan)を世界中に紹介したのはクリスチャン(クエーカー派)の新渡戸稲造氏(1900年)です。 確かに、「武士道」を初めとしてあらゆる宗教、道徳律に共通するところがあるかもしれません。聖書では、神の「公正」「公義」が教えられ、人は神に従い、人と人とは互いに仕えあう者として、「自分を愛するように、あなたの隣人をも愛しなさい。」と隣人愛の大切さが教えられています。

人類は共通の両親(アダムとエバ)から生まれたのであって、アダムとの類似があらゆる民族の宗教、文化の中に現れることでしょう。
しかし、聖書のすばらしさは特別であります。それは普遍性、永続性、歴史的裏付け、明確さ、統一と調和に優れているということです。

1.人間の起源、尊厳、目的そして責任が創造主なる神との関係によって示されています。無意味な人生、無責任な人生観は生まれません。
2.聖書はつねに世界人類を対象としており、ある特定の民族のために書かれたのではありません。神の独り子イエス・キリストはアジアのユダヤ人として生まれましたが、全人類のために十字架で死んでくださいました。聖書の十戒は道徳律の代表的なものであり,後半の戒めは今日も世界中の人々に受け入れられています。
3.聖書の出来事、登場人物、預言は歴史の中で確認されてきました。神話ではなく、歴史的事実であります。イエス・キリストの歴史性を否定するなら、西暦に頼ることは意味をなしません。
4.聖書が他の道徳の規範と異にする最大の点は、人間の罪深さと神の赦しです。

道徳は人間が秩序ある家庭、社会生活をする上でなくてはならないルールです。しかし、人間はそれを完全に守ることが出来ません。
どんなに修行しても、完全に守ることが出来ません。

人間の本質は、創造主なる神に対して、自己中心となり、その結果、人と人との間にも、平和に暮らすことが出来なくなりました。
しかし、そのような罪人である人間を神は赦してくださるのです。
神の子イエスの身代わりの死によって、人のどのような罪も赦され、人は神との本来の関係に戻ることが出来るのです。創造主を畏れ、敬うことこそ、道徳心を身に付ける鍵と言えましょう。

メニューへ